村松友親「私、プロレスの味方です」出版
後に「時代屋の女房」で直木賞を受賞する村松友親のデビュー作。元々は糸井重里が書く予定だったが「もっとマニアックで、もっと猪木プロレスを言語化できる人がいる」と村松を出版社に紹介したことで生まれた本らしい。古舘さんはこの本の出版がきっかけで、それまでのオーソドックスな実況から誰もが知る「過激な実況」に変わっていったと対談で語っている。
※小学校・中学校・高校・大学に入学した日ははっきり分からないため、全て「○月1日」と記述しています。
後に「時代屋の女房」で直木賞を受賞する村松友親のデビュー作。元々は糸井重里が書く予定だったが「もっとマニアックで、もっと猪木プロレスを言語化できる人がいる」と村松を出版社に紹介したことで生まれた本らしい。古舘さんはこの本の出版がきっかけで、それまでのオーソドックスな実況から誰もが知る「過激な実況」に変わっていったと対談で語っている。
埼玉・越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビューする。
NETが社名を全国朝日放送に変更。この時点で「テレビ朝日」は略称だった。これを記念して放送した特番「わが家の友だち10チャンネル」の中で、出演者の悠木千帆が自身の芸名をオークションに出品し落札されたことをきっかけに、新しい芸名を「樹木希林」とした。
アメリカンフットボール部に入り、1年生でリーグ戦のスタメンに抜擢されるが、すぐに退部。その後、東京アナウンスアカデミーに入り、本格的にアナウンス技術を学ぶ(よって局アナでは定番の放送研究会出身ではない)。ここで一緒だったのが、後にテレビ朝日で同期となる渡辺宜嗣と吉澤一彦である。就活ではとにかくアナウンサーになりたい一心で地方局も含めて受け、もし全て落ちたら就職浪人しようかとも考えるが、最終的に「ワールドプロレスリング」を放送しているNETに入社が決まった。
連合赤軍のメンバーが長野・軽井沢の保養所「浅間山荘」に籠城。
現在に至るまで古舘さんが愛してやまないミュージシャンである。
有名人を多く輩出している学校らしく、当時古舘さんの2学年上には高橋幸宏、1学年上にルー大柴、さらに1学年下に佐野元春がいた。2年生の時、古舘さんは友人とともにチャペルの中庭でプロレス興行(のようなもの)を開き、プロデューサー役と実況担当を兼務していたが、それが何百人も入る大興行に発展したため、最後はボールペンを使った流血戦(!)を行い終わらせた。そしてこの高校時代に、古舘さんはモップスのコンサートに足を運び、サイン会で出演者の一人だったみのもんたと初対面する。
テーマは「人類の進歩と調和」延べ6421万8770人が来場。