1953.2.1

日本初のテレビ放送がスタート

NHK東京テレビジョン局が日本初のテレビ放送を開始。祝賀番組として放送されたのは、尾上菊五郎劇団の「道行初音旅」だった。

1953.8.28

日本テレビ開局。日本初の民間テレビ放送スタート

民放第一号として日本テレビが開局。最初に放送された番組は舞踊「寿式三番叟」だった。また同日の正午には精工舎(現・SEIKO)による日本初のテレビCMも放送された。

1954.2.19

力道山・木村政彦組とシャープ兄弟のタッグマッチが行われる

古舘さんにとって、自らの誕生に関わる重要な日(らしい)。

1954.3.1

第五福竜丸事件発生

アメリカがビキニ環礁で実施した水爆実験により、遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の船員が被ばく。

1954.9.26

洞爺丸事故発生

台風15号により、青函連絡船「洞爺丸」が沈没。死者・行方不明者1155人。

1954.11.3

「ゴジラ」第一作が公開される

観客動員数961万人の大ヒットを記録した。

1954.12.7

古舘伊知郎、東京都北区滝野川に生まれる

お待たせしました。やっと生まれました。
この日、第5次吉田茂内閣が総辞職。戦後の政局が大きく動いた一日だった。

1958.12.23

東京タワー完成

正式名称は日本電波塔。高さ333m。2013年に国の登録有形文化財に指定された。

1959.2.1

日本教育テレビ(NET・後のテレビ朝日)開局

言うまでもなく、後に古舘さんが入社するテレビ局である。

1960.9.30

アントニオ猪木がプロレスデビュー

当時は本名の猪木寛至でリングに上がっていた。

1961.4

滝野川第二小学校に入学

古舘さんの幼少期のエピソードとしては鉄板の「凄く無口な子」だったころ。当時好きだったのは、テレビ番組「ディズニーランド(1958年日本での放送開始・日本テレビ系)」と「日本プロレス中継(日本テレビ系)」当時両番組は週ごとに入れ替わりで放送されており、日本プロレス中継のメインは力道山だった。

1963.12.15

力道山が刺される

赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団員と口論になり刺される。1週間後に入院先の病院で死去。

1964.10.10-24

東京オリンピックが開催される

アジアで初めて開催されたオリンピック。女子バレー「東洋の魔女」が金メダル。マラソンのアベベ・ビキラが史上初の連覇を果たし、円谷幸吉が銅メダルを獲得した。

1967.4

千代田区立今川中学校に入学

いわゆる越境入学だったが、学校ではいじめに遭っていた時期があるという。その一方で月~金は神田駅の北口で東京スポーツを買って電車の中で読み、自宅ではラジオの深夜放送を夢中で聴くという生活を送っていた。いわゆる「性の目覚め」もこのころ。また、ラジオのパーソナリティーやアナウンサーに憧れ、しゃべり手になりたいと思い始める。

1967.10.2

ニッポン放送「オールナイトニッポン」放送開始

この日のパーソナリティーは糸居五郎。古舘さんがたまに真似する「オールナイトニッポン、Go Go Go and Goes On!」は彼の名台詞。

1969.1.18-19

東大安田講堂事件発生

学生たちが占拠していた東大の安田講堂に警察機動隊が突入。

1969.6.2

文化放送「セイ!ヤング」放送開始

この日のパーソナリティーはみのもんた。彼のラジオでの語り口は古舘さんに大きな影響を与えた。

1970.3.15-9.13

大阪万博が開催される

テーマは「人類の進歩と調和」延べ6421万8770人が来場。

1970.4

立教高校(現・立教新座高校)に入学

有名人を多く輩出している学校らしく、当時古舘さんの2学年上には高橋幸宏、1学年上にルー大柴、さらに1学年下に佐野元春がいた。2年生の時、古舘さんは友人とともにチャペルの中庭でプロレス興行(のようなもの)を開き、プロデューサー役と実況担当を兼務していたが、それが何百人も入る大興行に発展したため、最後はボールペンを使った流血戦(!)を行い終わらせた。そしてこの高校時代に、古舘さんはモップスのコンサートに足を運び、サイン会で出演者の一人だったみのもんたと初対面する。

1970.6.1

吉田拓郎が「イメージの詩/マークⅡ」でメジャーデビュー

現在に至るまで古舘さんが愛してやまないミュージシャンである。

1972.2.19-28

あさま山荘事件発生

連合赤軍のメンバーが長野・軽井沢の保養所「浅間山荘」に籠城。

1973.4

立教大学経済学部に入学

アメリカンフットボール部に入り、1年生でリーグ戦のスタメンに抜擢されるが、すぐに退部。その後、東京アナウンスアカデミーに入り、本格的にアナウンス技術を学ぶ(よって局アナでは定番の放送研究会出身ではない)。ここで一緒だったのが、後にテレビ朝日で同期となる渡辺宜嗣と吉澤一彦である。就活ではとにかくアナウンサーになりたい一心で地方局も含めて受け、もし全て落ちたら就職浪人しようかとも考えるが、最終的に「ワールドプロレスリング」を放送しているNETに入社が決まった。

1977.3.10

NETがモスクワオリンピックの国内放送権を独占契約

プロフィール「ざっくりとした経歴」参照。

参考文献

  • 東京ニュース通信社「テレビ50年 in TVガイド」
  • 朝日新聞 1954(昭和29)年12月7日付夕刊
  • KAMINOGE編集部・編「KAMINOGE(玄文社)」No112 古舘伊知郎インタビュー
  • スポーツ報知 2020年11月6日更新「古舘伊知郎氏、中学時代のいじめられ体験明かす『すごくつらかった時がある』」
  • 古舘伊知郎×石橋貴明「第4学区(集英社インターナショナル)」
  • 渡辺宜嗣「報道『フットワーク』主義―『ハイ、こちら現場の渡辺です』(実業之日本社)」